今秋、かねてよりの念願がかない、奈良県宇陀市室生の安産寺地蔵菩薩像を拝観させていただくことができました。安産寺は宇陀川の清流を望むのどかな村落にあり、地元の素朴な人たちに守られながら、ひっそりと安置されている仏さまですが、もともとは室生寺金堂の国宝釈迦如来立像の横にあったらしいというものだけに、平安初期の地蔵尊として、まさに白眉ともいうべき素晴らしい重宝です(拝観には事前の予約が必須です。皆さまもぜひ、計画を組んで、訪れてみてください)。
あまりにも神秘的な面貌、いかにも室生寺の仏さまらしい連波式の衣文のえも言われぬ美しさ、たっぷりと豊満な御体をわずかに傾かせ、今にも動き出し、慈悲深いお言葉をかけてくださりそうな・・・そんな錯覚を抱かせる大傑作でした。
願わくばこれからも末永く、この風光明媚な室生三本松の地にて、素朴な人々によって、大切に守られ続けてほしいお地蔵様だと思います。それはつまり、美術館のガラス越しに眺める仏さまでは、たとえそれがどんなに素晴らしい仏さまであったとしても、これほどの感動は得られないだろうな…と私には思われたからでした。仏さまは本来、この安産寺のお地蔵さまのように、周辺の土地に暮らす人々とともにあるものではなかったか。仏教とは、寺院とは本来そのようなものではなかったか。奈良の山奥の、のどかな気に触れていると、そのようなセンチメンタリズムが生じてくるものです。
ひるがえって同日、室生寺も訪れた私でしたが、そこでとても残念に思われたことは、美術館のような新しい建物が建っていたことです。山寺の敷地の中にあって、その近代的で、無機質な建物は、私の眼にはぬぐいきれない異物感があった。そしてその中に、私の日本で一番好きな十一面観音さまが居られたことです。久方ぶりの再会でしたが、それはガラス越しのものとなってしまいました。このほうが、より明瞭に眺められ、これはこれで良いのかもしれません。ですが・・・あくまで個人的なわがままですが、願わくば、金堂の釈迦如来像や十二神将像たちとともに、昔のように並んでいてほしかった。